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赤れんが庁舎が重要文化財に選ばれた4つの理由

みなさん、こんばんは。

愛原 夢音です♪

 

今回も前回の記事に引き続き、「赤れんが庁舎」の歴史について

書いていきたいと思います。

 

赤れんが庁舎存続の経緯や、赤れんが庁舎が重要文化財に選ばれた

理由を中心にお伝えしていきます!

 

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80年も現役を貫いた赤れんが庁舎

 

 

道庁の新庁舎が完成したのは、昭和43年のこと。

赤れんが庁舎は、80年間庁舎として使われていました

 

80年も現役を貫いていたというわけですね。

 

北海道の100年切符を記念して、赤れんが庁舎は復元改修して

永久保存することが決められました

 

しかし、そこに至るまでは紆余曲折がありました。

 

 

赤れんが庁舎存続の経緯

 

当初は、「赤れんが庁舎を壊した方がいいのではないか」という声も

上がっていたそうです。

 

それを一蹴したのが、とある専門家の言葉でした。

 

昭和38年に、現在の文化庁の前身である文化財保護委員会の

建造物課長だった東大の教授が、新聞で

 

「赤れんが庁舎は永久に守るべき」

 

と発表し、翌年には北海道本庁舎建築協議会が開かれました。

 

知事や学識経験者が参加し、復元改修したうえで

建物の1部として使えるようにしよう、という結論が出されたのです。

 

昭和42年の改修までに復元調査設計懇談会が設置され、

行われた会議には、そうそうたるメンバーの専門家が集められました。

 

日本の建築士会をリードする人たちが集められたのです。

 

 

 

赤れんが庁舎が重要文化財に選ばれた理由とは

 

重要文化財になると、その選考理由は必ずどこかに

資料として残っています。

 

ところが赤れんが庁舎に関しては、その理由が残っていません。

 

残っていないこと自体が謎なのですが、

赤れんが庁舎が選ばれた理由は以下の4つあると考えられています。

 

 

 

明治21年の建てられ、設計が道庁の技術者集団が担当している

アメリカ風のネオバロック様式

★れんが造り

★日本の建物の中でも、類まれなデザインのもの

 

 

れんが造りは、いってみれば地産地消です。

 

北海道に由来したれんがや木材、鉱石が使われていて、

地域のシンボルとして非常にふさわしい。

 

それも選ばれた理由に入るのかもしれません。

 

 

重要文化財指定を受けるまでの、不思議な歩み

 

赤れんが庁舎は、先程も述べたように日本の建物の中でも

類まれなデザインのものだと評価されています。

 

そんな、重要文化財とともに史跡指定を受けている赤れんが庁舎。

 

実は、史跡指定をされてから重要文化財に指定されるという

変わった歴史があります。

 

赤れんが庁舎は、古い本庁舎の跡も含めて史跡指定をされています

 

歴史的な建物は、重要文化財文化財に指定されていないと

立て直したり改修するときに建築基準法にひっかかってしまいます。

 

赤れんが庁舎も、例外ではありません。

 

赤れんが庁舎が改修工事をする際も、

建築基準法にひっかかることが多々あり、

工事関係者は大変な思いをしていたといいます。

 

それを回避するために、どうしたか。

 

それは、「史跡指定」というお墨付きをもらうことでした。

 

史跡指定さえされていれば、改修の際にも緩和措置が出て

改修もしやすくなります。

 

実際に、改修工事が完成してから重要文化財に指定されたという

なんとも不思議な歩みを赤れんが庁舎は経験しています。

 

現在も観客数が絶えない赤れんが庁舎は、元号が変わった今でも

北海道のシンボル的存在として威厳を保ち続けている。

 

私はそう感じます。

 

 

防火用水としての池、全く機能せず…

 

 

赤れんが庁舎にある池は、明治21年に本庁舎ができた際に

庁舎の防火用水として南北につくられたといわれています。

 

この池、残念なことに

いざというときに全く役に立ちませんでした。

 

というのも…

 

 

明治42年の火災では、南北にある池が両方とも凍っていて、

水が全く使えなかったのです。

 

 

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そんな、凍ってしまった池を有効活用すべく立ち上がった人がいました。

その人というのが、帰国したばかりの新渡戸稲造です。

 

名前を聞いたことはあるという方も、いらっしゃるかもしれませんね。

 

簡単に紹介すると…

新渡戸稲造は、北海道開拓や農業の発展に大きく貢献した人物です。

 

著書も多く残しています。「武士道」が代表的ですよね。

 

 新渡戸稲造についてもっと詳しく知りたい方は、

こちらの記事を参考にしてみてください。

 

【参考】新渡戸稲造は北海道で大活躍 – 北海道ファンマガジン

 

 

 

冬に池が凍ってしまうので、帰国後の新渡戸稲造

アメリカ製のスケートを札幌農学校の学生に教えたといいます。

 

赤れんが庁舎の池では狭すぎるまでに、愛好者は倍増。

 

これでは困るということで、

当時は中島公園の凍った池でもスケートをしていたそうです。

 

昭和43年には、中島公園は緑地保護地区になりました。

 

ですので、当時のように

冬に中島公園の凝った池でスケートをすることは禁止されています。

 

当時だからこそ、できたことなのかもしれませんね。

 

 

銀杏並木と街路樹の歴史

 

ここからは、札幌の街路樹の歴史について触れていこうと思います。

 

明治4年に、現在の北海道神宮(当時は札幌神社)の裏参道沿いに

アカマツが植えられていたのが札幌の街路樹の起源だといわれています。

 

古い写真を見ると綺麗な街路樹が映っていることから、

札幌駅前通り(北1条~南4条までの間)には

明治18年にしだれ柳や桜などが植樹されていることがわかりました。

 

道庁前の銀杏並木は大正14年に植えられたもので、

赤れんが庁舎の前の広場は、もともと木れんが舗装の歩道でした。

 

それに合わせるような形で、銀杏並木の道路をつくったといわれています。

 

赤れんが庁舎内の施設、今後どう変わる?

 

2022年に向け、リニューアル工事中の赤れんが庁舎。

新しくなった後の活用計画があるようです。

 

それについては後述しますが、

まずは赤れんが庁舎の中にはどんな施設があるのかを簡単にご説明します。

 

 

赤れんが庁舎の中には、

  • 北海道立文書館
  • 観光情報コーナー
  • 北海道の歴史ギャラリー
  • 樺太関係の資料館
  • 北方領土館       があります。

 

 

2階の中央には、北海道庁長官の部屋のほか

会議室として利用されていた部屋もあります。

 

現在行われている大改修では、

飲食スペースや道産品の販売所などの設置が考えられているようです。

 

地下1階には、道民の活動スペースや

開拓時の絵が展示されているギャラリー。

 

1階には、飲食スペースや道産品のセレクトショップがあり、

北海道各地の観光情報発信にも利用されています。

 

 

今後の展望としては、

 

屋上バルコニーから外の景色を眺望することが考えられています。

 

そのバルコニーに辿り着くまでには、はしごを渡らなければならず

足元が悪く下も見えるようなので、高所恐怖症の人は無理かもしれません…

 

八角塔はどうするか検討している最中とのこと。

 

入館料を無料にするか、有料にするのかも検討しているようです。

 

2階をいろいろな催し物をするスペースにする計画もあり、

集客にも期待が高まりそうです。

 

制約がある中でも、古き良きところは残しながらいろいろな活用方法を模索する。

 

そんな、時代の変化とともに共存してきた「赤れんが庁舎」。

どんな姿になって戻ってくるのか、楽しみですね。

 

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

次回もお楽しみに…♪