ユメノオト

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忘れてはいけない75年前の事実

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みなさん、こんばんは。

愛原 夢音です♪

 

今回は、先週放送されたSUNDAY'S POSTの内容をお伝えします。

 

 

 

 

今日は、8月15日。終戦の日です。

 

SUNDAY'S POSTでは、梯久美子さんをゲストにお迎えして

戦争の話をいろいろと伺いました。

 

 

終戦から、75年。

 

当時の人たちが書いた手紙を通して、

戦争の痛ましさについて考えていきます。

 

 

 戦争の悲惨さを語り継ぐ重要性

 

メインパーソナリティー小山薫堂さんと宇賀なつみさんが、

戦争について考えたことを離してくださいました。

 

小山薫堂さんの話では、ベビーシッターをしていた

おばあさんが長崎出身で、被爆手帳を持っているそうで…

 

苦しいような話は何もしなかったそうですが、

戦争がどれだけ大変かという話を聞いて、

その苦しさはいつも感じていたそうです。

 

一方の宇賀なつみさん。

 

おばあさんが小学生になるかならないかくらいのときに、

戦争を経験したといいます。

 

空襲の中、逃げ回ったこともあるのだとか。

 

小山薫堂さんのお父さんが、いつも言っていたことがあるといいます。

 

それは…

 

戦争というのは、それを記憶した人がいなくなった頃にまた起こる」。

 

記憶した人がいなくなっても

語り継がなければならないと思った、と小山薫堂さんは言います。

 

今回は、当時の人の手紙から戦争について改めて考えていきます。

 

 

「100年の手紙」に込められた思い

 

岩波新書「100年の手紙」の中に書いてある手紙の内容を、

いくつかご紹介していきます。

 

まずは、1つ目の手紙。

 

『お父さん、お母さん、みのるはこんなところにいます。

 ほら、昔わかなが演奏会などに晴れ姿を見せたときの赤いびろうど。

 

 それが明かりに光っていたのと同じふうに。

 

 海は今、つやつやと日に輝いています。

 

 眠い午後です。

 

 そして私は、400トンの鋼鉄曳船(えいせん)の指揮官。

 首には双眼鏡、左腕には特攻マークの緑の菊水です。』

 

 

今紹介したこの手紙は、昭和20年3月26日に書かれたものです。

手紙を書いたのは、うだ みのるさん。

 

東京帝国大学在学中に召集され、特攻兵になりました

 

この手紙、とても穏やかで静かな文面のように思いますが、

1番最後のところに「左腕には特攻マーク」という文言がありますよね。

 

この文言が、戦争の悲惨さを物語っているように思います。

 

彼が乗っていた船は、人間魚雷 回天というものです。

 

映画や本になったこともあるので、

ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

 

名前からして恐ろしいですが…

 

この船は、潜水艦から発進して相手方の戦艦に体当たりをする

1人乗りの特攻艇です。

 

そのための訓練を受けていた基地から両親にあてたのが

先程紹介した手紙になります。

 

手紙に託した消息

 

この手紙は、ポストに入れられて送られたものではありません。

 

当時、特に特攻隊の人たちは自分が特攻隊だということも、

どこの基地にいるのかということも一切秘密にしていました

 

しかし、「家族にはやっぱり何か伝えたい」ということで

彼は家族が面会に来たときにある行動を起こします。

 

それは、

 

弁当箱の底に自分の日記帳を油紙に包んで入れて、

その上からごはんをかぶせて、隠して渡すことでした。

 

その日記帳の中には、両親あての手紙がはさまれていたのです。

 

その一節が、先程の手紙の文面です。

 

彼は、終戦間近に命を落としました。

実際には戦いで亡くなったのではなく、訓練中の事故で亡くなっています。

 

それも、7月25日…

 

終戦直前のことです。

 

この回天という特攻艇は、戦争の終わり頃になって急遽開発されました。

そのため精度が低く、故障が多かったのです。

 

訓練中の事故で亡くなった人が、たくさんいました。

 

残酷な話ですが…

 

この回天は1人乗りで、1回発進すると

自分からは外に出られないようになっています。

 

閉じ込められたまま、敵の戦艦にぶつかっていく

そんな、海の特攻だったのです。

 

あと、5ヵ月。

 

5ヵ月待っていたら、戦争は終わっていたんです

 

彼が亡くなったときは、あと1ヵ月もたたずに終戦だったといいます。

 

私は、なんだか、やりきれない気持ちになりました。

 

もう少し待っていたら、救えた命もたくさんあったかもしれない

そう思うと、残念でなりません。

 

彼はまだ、東京帝国大学在学中でした。

23歳という若さで、命を落としたのです。

 

 

先程紹介した手紙の文面には、自分が特攻兵で

しかも海で特攻をするということを書いています。

 

自分の消息を伝えるために、手紙に書き記していたのです。

 

こうやって伝えなければ、戦後になるまで

どこでどのように亡くなったかということは

家族にもなかなかわからなかった時代でした。

 

そのため、弁当箱の下に隠した日記にはさんで

せめて自分がどのような任務でどのように死んでいくのかを

伝えたかったのだと思います。

 

 

特攻兵の家族にあてて書いた、女学生の手紙

 

梯さんが1番印象に残っている手紙は、女学生の手紙だといいます。

 

特攻に関することで言うと…

 

鹿児島県の知覧(ちらん)には、陸軍の特攻の飛行場の基地がありました。

 

今でも記念館がありますが、その知覧から若い特攻兵が

沖縄に向けて飛び立つ様子を見送った女学生の手紙が、

梯さんはとても印象に残っているそうです。

 

若い特攻兵たちの身の回りの世話をしていたのが、

基地の近くにあった、知覧高等女学校という女学生たちでした。

 

ごはんをつくったり、掃除をしたり、

つくろいものをしたりしていたそうです。

 

自分が世話をした特攻兵が出撃する、となったとき

その女学生たちが特攻兵の家族にあてて手紙を書いていたのです。

 

いつ出撃して、どこでどう亡くなったのかということは

両親には連絡がいかないことになっています。

 

知覧にいるということも、知らなかった親はたくさんいました。

 

本当はやってはいけないことでしたが、

女学生たちが住所と両親の名前を聞いておいて、

 

「〇〇さんは、〇月〇日に飛び立たれました」

 

という手紙を、両親あてに送っていたのです。

 

最後の様子はどうだったか、最後に何を語ったかなど

家族が知りたいであろうことを手紙に書いて送っていました。

 

その手紙の中で、梯さんが特に強く心に残っている手紙があります。

その内容は…

 

 

『なんと情深い方でございましたでしょう。

 

 俺は、お父、お母上様を見たいが、また会ったら母が嘆いて

 1週間くらい眠らないと可哀想だから、もう会わない方が良い。

 

 自分は見たら死ぬだけだから良いが、あとで思う人が可哀そうよ。

 

 死ぬまでに、一目でも妹を見て死にたいと言っていました。』

 

 

知覧から飛び立った特攻兵は、ほとんどが10代~20代の若者。

 

この人は、小さな妹がいたのでしょうね。

 

 

自分がこうやって死ぬとか、こういう気持ちだというよりも

後に残る人のことを心配している手紙が、多いのだとか。

 

この手紙を書いたのは、なかの いえこさんという14歳の女学生でした。

 

14歳でこのような手紙を書かなければいけないと思うと、

胸が締め付けられる思いがします。

 

年端も行かない女学生が特攻兵を見送って、

最後の姿を書いて両親に送っていた。

 

それは、こういう手紙が残っていたからわかったことです。

 

残されていなければ、知り得なかった事実

 

年表に残るような歴史の中には、決して出てこない事実です。

しかし、とても大事な事実であることに変わりはありません。

 

それが、今に残る手紙によって戦争のリアリティー

人の思いが見えてくることがあるように思います。

 

 

なぜ命を捨てなければならなかったのか

 

 

同じページに書いてある14歳の女学生の手紙には、

こんなことが書いてありました。

 

 

私たちはいつも、特攻隊の兵隊さんがたを見て、

 こんなに立派な体を海に捨てるのだと思うと、

 

 これも米・英のためであると残念で残念で

    たまらなくなって、

    涙でいっぱいでありました。               』

 

 

 

これを聞いた小山薫堂さんは、

「75年前のことだけど、私たちは忘れかけている」と話します。

 

75年前のこの事実は、歴史で言うとつい昨日みたいなもの。

それを忘れてはいけないと言っていました。

 

 

長期化した日常と戦争が共存する時代 

 

冒頭でもお伝えした、「100年の手紙」。

この本は、2013年に発表されました。

 

実際に手紙を読むことで、梯さん自身が

それまで思っていた戦争のイメージと違うことはあったのでしょうか?

 

 

梯さんは、戦争のことをたくさん書かれていますが

40歳くらいになるまでは、戦争について考えたり

調べたり勉強したりしてこなかったといいます。

 

戦争というと、

 

戦場の話や、広島・長崎の原爆の話、沖縄の地上戦の話、

東京大空襲ばかりをイメージしていたそうです。

 

しかし、日常の中にも戦争はあって

日常と戦争が共存する時代が長く続いていました

 

空襲が頻繁になる前から、家族が招集され

 

お父さんがいない、お兄さんが家にいない…と

家族はどんどん減っていきます。

 

それが、手紙を通して見えてきたそうです。

 

 

家族をバラバラにする。それが、戦争

 

戦争とは何か。

 

いろいろな表現がありますが、梯さんが手紙を読んで感じたのは

戦争というのは、家族がはなればなれになるということでした。

 

戦時中の手紙は、戦時でのやり取りや疎開先でのやり取りなどが多く残っています。

 

 

男の人は戦争に取られ、子供は学童疎開になり

お年寄りは都会から離れる。

 

しかし、都会に残って働かなければならない女性たちもいます。

 

男手がなくなった中、工場で働いたりバスの運転手になったり

放送局でアナウンサーになった人もいました。

 

アナウンサーは放送戦士

 

戦争で男手がなくなってしまったため、

アナウンサーは女性しかいなくなってしまいました

 

アナウンサーは「放送戦士」と呼ばれ、

疎開はしてはいけないと言われてしまいます。

 

そのため、アナウンサーは同郷に残って仕事をしていたそうです。

 

 

看護師(当時は看護婦と呼んでいました)は、

家族が疎開したり戦争に行ったりしていたので

自分1人で残って寮に入り働いていた人もいました。

 

その人たちも、手紙を書いています。

 

家族がバラバラになる、それが戦争です

 

 

日常に入り込む「死」 

 

手紙のやり取りは、当時は日常会話の代わりでした。

近況報告であると同時に、遺書でもあったのです。

 

今書いているこの手紙が、最後の手紙になるかもしれない。

誰もがそう思って、手紙を書いていた。

 

そういう時代だったということが、今に残される手紙から

見えてきます。

 

 

手紙は、日常の息づかいが聞こえるだけではありません。

 

その日常の中に「死」が間違いなく入り込んできていたというのがわかります。

 

 

手紙の内容には、悲しい、苦しい話ばかりではなく

他愛もない話や普段家族が日常会話で話すような内容もありました。

 

たとえば、

 

疎開先の子供がけんかした」とか、

「先生に叱られた」とか…

 

若い主婦は、

「配給の大根が、隣の人の方が少し多かった」など…

 

 

配給には、食べ物だけでなく花も売られていたことがあったようです。

 

そういうささやかな日常みたいなものも、

手紙を通して見えてきたりもします。

 

 

いずれにしても。

 

 

戦争は2度と起こしてはならない。

 

 

こんな悲惨な出来事は、絶対にしてはならない。

そう強く思いました。

 

 

私は、戦争を経験していない若い世代です。

でも、戦争については学生時代に学んだことがあります。

 

高校時代に、沖縄の地上戦について学んでからは

特に戦争への強い憤りを感じていました。

 

戦争は、よく

「人の命を軽視している」という表現をされることがありますが、

命を軽視するどころか命自体を蔑んでいるのではないかと思えてなりません。

 

人は、国のために死ぬために生まれてきたわけでも

敵の戦艦に突っ込むために生まれてきたわけでもありません。

 

本来、人は、自分の人生を全うするために、

幸せになるために生まれてきたのではないでしょうか。

 

私は、そんなことを考えました。

 

国のために殺し合いをする世の中を望んでいたわけはありません。

 

若い命を、こんな愚かな行為で犠牲にして得たものは一体何だったのか。

 

国のために死ぬのは名誉だ。

 

そんなこと、間違ってる。

 

死ぬのは、名誉でも何でもない。

戦争で失ったものは、多くの尊い命。

 

多少の犠牲は仕方ない。

 

その考え方自体が間違っている。

 

1人の犠牲者も出してはいけないのに、

死にたくないのに死んでいく人たち。

 

もうそんな人は、1人も出したくない。

 

そう心から思います。

 

 

生きていることは、恥。

 

そう教えられた軍国主義の恐ろしさが身に染みます。

 

生きていることは、恥なんかじゃない。

むしろ、生きていくことは誇らしいことだと思います。

 

戦争を経験していても、していなくても。

生きることは、つらいことばかり。

 

それでも、生きることに価値があると私は信じたい。

 

ラジオを聞いて、泣くまいと思っていましたが

耐えられなくなって号泣してしまいました。

 

涙が止まりませんでした。

 

 

人の命をなんとも思わない。

 

それほどまでに、戦争は残虐な行為を繰り返す、

とても、とても愚かな行為です。

 

こんなことは、絶対にしてはいけない。

絶対に。

 

 

 

犠牲者のご冥福を、お祈り申し上げます。

そして、これからも平和が続くように……祈りを捧げます。